こんにちは!miekoです。
昨年ワンピースのオーダーをいただいた、
松希佳奈さんに四柱推命の鑑定をしてもらいました。
https://www.instagram.com/matukana1111/
なんでも私には生月中殺というのがあって
これは、
<1回で2回分のドラマチックな人生を歩む>
<世のため人のためにすると運気が上がる>
そうで、これを持ってる著名人は松下幸之助!
え~~~!私が松下幸之助!?
で、伝記を読んでみました。
1894年(明治27年)11月27日(…七赤で射手座かな?)
和歌山県の江戸時代から続く地主の家に生まれる。
家には使用人たちが住む長屋がそのまま門になった
立派な長屋門があった。
兄二人姉五人の末っ子でかわいがられて育つ。病弱だった。
上の兄は和歌山県にただひとつの中学校に通っていた。
それが、
4歳の時に父親が米相場に手を出し失敗。
財産を無くし、
大八車で元の家の門よりも小さな長屋に引っ越す。
父は下駄商を始めるもうまくいかず、、
翌年兄二人と姉を亡くす。
両親も諍いが起こるように。
父が家を出て大阪に新設する盲唖院の
事務兼宿舎の住み込みになる。
9歳、尋常科(小学4年)の時に
父の提案で大阪の火鉢屋の奉公に出る。
自分が家を出れば食い扶持が減って家計が楽になると思った。
奉公先での生活に慣れてきた3ヶ月後、店が倒産。
10歳、自転車屋の奉公に。
そこで店主の兄、大阪盲唖院院主の五代五兵衛と出会い
仕事の心構えを教わる。
「誠実に、熱意を込めて何でもやること。
知識が足りない、才能が無いとしても
何とかしてこの仕事をやりとげようという熱意を持っていたら
必ずいい仕事が出来るようになる。
仮に自分では出来そうに無くても
誠実に熱心に仕事をしていたら
周囲の人が熱意に引き寄せられるように助けてくれる」
12歳で父と姉ふたりを亡くす。
15歳、市電が走るのを見て
「これからは電気の時代になる」と直感。
電気会社の見習工になる。
18歳夜学に入学。母死去。
20歳で結婚。
22歳、会社で上のポジションになって楽になったが
気持ちに張りが無くなり体調崩す。
「どうせ人間はいずれ死ぬ。
ただ寝ていて死を待つというのは面白くない。
働ける間は大いに働こう」と独立。
ソケットを作ったがなかなか売れず
着物を質屋に入れてお金を借りる生活。
仕事ぶりを見ていた近所の人から大量の注文が入る。
<誠実に熱心に仕事をしていたら、
周囲の人が熱意に引き寄せられるように助けてくれた>
新製品を作り大発展。人を増やす。
第一次世界大戦が休戦となりその影響で景気悪化。
多くの工場が縮小、閉鎖。
そんな中、社員を守り工場拡大。
1929年、世界恐慌始まる。景気悪化。
工場の閉鎖が相次ぎ銀行も倒産。
松下電器も在庫が増える。
「生産は半分にし工場は半日勤務。給料は全額払う。解雇はしない。
店員は全員外回りして在庫を売る」
2ヶ月で倉庫に積みあがった在庫は全て売り切れ
工場はフル生産に戻る。
1941年太平洋戦争が始まると軍の命令で船と飛行機を作る。
戦後GHQから日本軍に協力したとして公職追放の命令を受ける。
労働組合が追放をやめさせる嘆願書を1万通以上集め解除される。
物価高、凶作で食料不足、余裕が無くなり人々の心は荒み犯罪が増える。
本当の繁栄によって平和や幸福を実現する道を探求しようと
PHP研究所を創設。
Peace and happiness through Prosperity
(繁栄によって平和と幸福をもたらそう)
電気製品を作る仕事を通じて物の豊かさを目指し、
PHP活動を通じて人間の心が豊かになるように努力を続けていった。
1960年、5年後に週休二日制を実施すると発表。
1961年65歳、社長退任し会長に。
自伝や仕事や人生、経営に関わる本を書く。
1962年、アメリカ『タイム』誌の表紙をかざる。
1964年アメリカ『ライフ』誌で日本を代表する人物として
①最高の産業人②最高所得者③思想家④雑誌発行者⑤ベストセラー著者
という5つの顔をもつ人物だと紹介される。
日本は景気が悪化し町中の電器店が店をたたむ状況に。
なにかがおかしいと感じホテルで3日間会合を開き苦情を聞く。
営業本部長代行として大改革に乗り出し業績を回復させる。
1967年、中国の鄧小平副首相(当時)に
「中国の近代化に力を貸して下さい」と言われ
「21世紀は中国と日本の時代です」と述べ
真っ先に中国に工場を建てる。
”最初に井戸を掘った人”と称えられる。
1979年、日本の国をよりよくしたいとの思いから
私財70憶円を投じ「松下政経塾」設立。
「私は、成功というのは自分に与えられた天分を
そのまま完全に生かしきることではないかと思います。
自分も満足すると同時に周囲の人々も
喜ばすことになるのではないか。
この人間としての成功こそが
真の意味の成功ではないかと考えるのです」
1989年(平成元年)94歳で亡くなる。
~今日の気づき~
大金持ちのお坊ちゃんから一転
小学校も卒業出来ずに働き出し
末っ子だったのにみんな亡くなって
26歳でたったひとりに。
交通事故に遭って
自分のこどもまで亡くして、、、。
松下幸之助というと
名言の「陽」のイメージしかなかったけど
こんな凄まじい「負」の人生も歩んでいたとは!
<1回で2回分のドラマチックな人生を歩む>
どころか何十回分もの人生じゃないか!?
車にぶつけられても相手を恨まずに「運が強い」と思い
こどもを亡くしても「親の悲しみがわかった」
「社員やその家族の幸せのために、息子の分までやる!」と言う。
<世のため人のためにすると運気が上がる>
まさにその様に生きた人だったんだ!
と、今更ながら気づきました。